ワールドカップ開催時の症候群サーベイランス

国立感染症研究所感染症情報センター
谷口 清州

背景

 2002年FIFAワールドカップは、日本・韓国共同開催にて、2002年5月31日に韓国でキックオフされ、期間中全世界からの32チームが64試合を戦い、6月30日、ブラジルの優勝で幕を閉じた。

 感染症対策の視点から見ると、このような全世界から多くの人口が短期間に特定地域に集中するイベントにおいては、一般感染症、輸入感染症あるいは病原体の意図的散布によるアウトブレイクの危険性を考慮しておく必要があり、また、2000年のイスラム教巡礼に伴う髄膜炎菌性髄膜炎W135による世界各国における広域アウトブレイク、またマレイシアで行われた国際トライアスロン大会に伴うレプトスピラ症の世界各国にわたるアウトブレイクに例を引くまでもなく、昨今の交通の発達は、感染症の世界的な蔓延を容易にしている。また、昨年の米国における航空機テロや炭疽菌テロ以来、世界中がバイオテロリズムに注目しており、ワールドカップなどの世界中の注目を集めるイベントは、バイオテロの絶好の標的になることは予想に難くない。

 このような状況下、開催国、あるいは開催地の使命として、選手、観客、そして日本国民を感染症から守らなければならず、そのためには、既存の感染症サーベイランスシステムを強化し、十分な危機管理(Crisis management, or Consequence management)体制を確立しておく必要がある。しかしながら、既存のサーベイランスシステムは、疾患に基づいた報告を求めるものであるためその診断に時間がかかり、また不明疾患や稀な輸入感染症については対応できない場合もある。そこで、ワールドカップ期間中、従来の疾患サーベイランスを強化/再確認するとともに、それらを補填する目的で、迅速に感染症の発生動向を探知する症候群別サーベイランス事業が、厚生労働省、ワールドカップ主催自治体および東京都の協力により実施されたので、その概要を記述し、今後の本邦における対応について考察する。

サーベイランスシステム

 症候群サーベイランスは、ワールドカップ開催期間の平成14年5月31日?6月30日及びその前後2週間の約2ヶ月間、試合を開催する10自治体(宮城県、茨城県、埼玉県、新潟県、静岡県、大分県、札幌市、横浜市、大阪市、神戸市)および東京都において、入院設備がある地方の感染症における基幹病院であり、内科、小児科、皮膚科、および夜間救急(1次と2次)を備え、感染症指定医療機関のごとく、重症の感染症が入院する可能性が高く、競技施設および宿泊施設の周辺にありワールドカップ開催中に救急車などで患者が搬送される可能性が強い医療機関、合計87施設の協力を得て実施された。

 報告の対象として、その日24時間(昼間、夜間救急すべて含む)全入院患者のうち、感染症が確定あるいは疑われる1歳以上の症例(あきらかな非感染症、すなわち外傷、脳血管障害、心血管障害などを除く)であり、以下の5症候群、(1)急性皮膚/粘膜/出血症候群、(2)急性呼吸器症候群、(3)急性胃腸症候群、(4)急性神経症候群、(5)急性非特異症候群の定義に合致するものとした。毎日、参加医療機関よりそれぞれの症候群別に、患者の年齢、性別、そして暫定診断名を含む参考情報が、インターネットを介した報告システムにより報告され、自治体レベル、国レベルにて集計、解析され、疾患のクラスタあるいは異常な増加が疑われる場合には、各自治体により追跡調査が行われて、積極的疫学調査の要否の判断材料とした。

結果

 サーベイランス期間中、合計3444例が報告され、それぞれ皮膚粘膜症候群 248例、呼吸器症候群 1914例、胃腸症候群 607例、神経症候群 231例、非特異症候群 444例であった。医療機関からの報告率は、平日は95%以上で、終末は80%であった。期間を通して、アウトブレイクは探知されなかったが、終盤に小児年齢層で神経症候群の報告数の増加が認められ、発生動向調査情報と併せて、無菌性髄膜炎の流行の初期をとらえていたことがわかった。また、皮膚粘膜症候群の範疇で、多くの成人麻疹が報告され、発生動向調査からの報告よりも実際には多くの症例が存在していることがうかがわれた。

今後の展望

 バイオテロの危険性は依然として存在し、米国での急速な西ナイルウイルスの蔓延の状況、昨今のA型肝炎の輸入例の増加、髄膜炎菌性髄膜炎W135の国際的な伝播、あるいはニパウイルスのアジアでの流行状況を考えると、今後も本邦に国際的に重要な感染症が侵入、あるいはアウトブレイクが起こらないという保証はない。不明疾患や輸入感染症に備えて、本邦でも不自然な疾患の集積や、不明疾患の発生を早期にとらえるシステムを樹立しておく必要があると考える。折しも感染症法の見直しの時期を2年後に控え、検討が開始されているが、本邦にも有る程度の存在がうかがわれているにもかかわらず、稀で診断が難しいためにほとんど報告されていない4類疾患の問題もあげられており、症候群サーベイランスのようなシステムとともに、稀な疾患の臨床での診断・治療を支援するシステムあるいはネットワークを樹立することが肝要である。