第5セッション インフルエンザ情報と対策



鳥とヒトのインフルエンザ
北海道大学大学院獣医学研究科
 教授 
喜田 宏


 1997年に香港に出現したニワトリのH5N1インフルエンザウイルスは、18人に感染し、うち6人を死亡させた。年末に150万羽の鳥が処分され、その後H5N1ウイルスによるインフルエンザの発生はない。この事件は、新型ウイルスの出現に備えた対策を確立しておくことの重要性を改めて強調する警鐘である。地球規模の疫学調査を実施して、新型ウイルスのヘマグルチニン(HA)亜型を予測すると共に、ワクチンウイルス候補株を選定しておくことは、極めて重要かつ急を要する課題である。インフルエンザの発症、重症化、脳症や死亡に与る宿主因子を明らかにして、その治療法を確立することもまた急務である。すなわち、ウイルスの宿主細胞レセプターとの結合特異性と宿主域、HA分子の細胞内プロテアーゼによる開裂活性化および膜融合による細胞内侵入メカニズムと臓器トロピズム、ウイルス感染によって誘導される宿主因子による血管内血液凝固と症状、重症化および脳症との関連を解明する必要がある。


1. はじめに


 人類はこれまで多くの伝染病を克服してきたが、インフルエンザは、効果的な予防・治療法が確立されないまま、重要な疫病として残されている。ウイルスの抗原性が年々変る上に、新型ウイルスが出現するためである。過去数十年間、ヒトが経験していないヘマグルチニン(HA)亜型のインフルエンザAウイルスが出現した時、これを新型ウイルスと呼ぶ。新型ウイルスがヒトに感染して伝播すれば、人々にはそのHAに対する免疫がないため、インフルエンザの大流行が起こる。今世紀、新型ウイルスは4回出現し、その度に多くの人命が失われ、社会機能は麻痺した。これからも新型インフルエンザウイルスは出現するであろう。新型インフルエンザの発生に備えて、その予防・治療法を確立しておかなければ、同じことが繰り返される。
 動物とヒトのインフルエンザAウイルス遺伝子の起源はカモの腸内ウイルスにある。カモのウイルスとヒトのウイルスがブタの呼吸器に感染すると、両ウイルスの遺伝子再集合体が生まれる。その中で、カモのウイルスに由来するHAをもち、ヒトに感染・伝播したものが新型ウイルスである。1997年に香港でニワトリとヒトに感染した強毒H5N1インフルエンザウイルスもまたシベリアから飛来するカモのウイルスに由来する。
 新型ウイルスのHA亜型を予測する目的で、カモ、家禽とブタにおけるインフルエンザの疫学調査をアジアの各国および米国と共同で開始した。この調査で分離されるウイルスの中から、ワクチン株を提供する計画である。
 現在流行しているインフルエンザでも、ハイリスク者には極めて危険な感染症であり、年に数百名の小児に脳症を起こす。ワクチンの接種率が極めて低い上に、治療法がないためである。アマンタジンが用いられているが、耐性変異株が出現し易く、副反応を引き起こす欠点がある。より有効な抗ウイルス薬を開発し、重篤な症状、脳症や斃死を防ぐ治療法を確立することもまた、インフルエンザを克服するために必須の課題である。

2.新型インフルエンザウイルス出現のメカニズム

 インフルエンザAウイルスは人を含む哺乳動物および鳥類に広く分布する。なかでも、カモはすべてのHAとノイラミニダーゼ(NA)の亜型(H1-H15、N1-N9)のウイルスを保持している。インフルエンザウイルスの生態調査と系統進化解析によって、ヒトと動物のインフルエンザAウイルスの遺伝子分節はすべてカモのウイルスに由来することがわかった。カモはインフルエンザウイルスに経口感染し、症状を示さないまま、大腸の陰窩を形成する単層円柱上皮細胞で増殖したウイルスを糞便と共に排泄する。カモに害を及ぼすことなく受け継がれているウイルスは家禽やウマに伝播して、病原性を発揮することがある。ブタではインフルエンザが慢性呼吸器病の誘因となっている。ミンク、アザラシやクジラにも鳥のインフルエンザウイルスが感染する。インフルエンザは即ち、地球上に最も広く分布する人獣共通共通伝染病である。
 動物とヒトのインフルエンザAウイルス遺伝子の供給源はカモである。ブタの呼吸器上皮細胞には、ヒト由来のウイルスばかりでなく、カモのウイルスに対するレセプターもある。ブタがヒトのウイルスとカモのウイルスに同時感染すると、両ウイルスの遺伝子再集合体が生ずる。その中で、カモのウイルスに由来するHA遺伝子をもち、ヒトに感染・伝播したものが新型ウイルスである。新型ウイルスの出現に、カモ、中国南部のアヒルおよびブタがそれぞれ、ウイルスの供給、伝播および遺伝子再集合体産生の役割を果たす。1968年に出現した新型ウイルスA/Hong Kong/68(H3N2) 株は、それまでの流行株であるアジア型H2N2ウイルスとカモに由来するH3ウイルスがブタの呼吸器に同時に感染して生じた遺伝子再集合体で、そのHA遺伝子の導入経路は、カモ→アヒル→ブタ→ヒトである。
 カモは、夏の間、北方圏の湖沼で巣を営み、産卵し、雛を育てる。アラスカで調査した結果、カモはその営巣地でインフルエンザウイルスに高率に感染しており、その営巣湖沼水は多量のウイルスを含む。秋にカモが渡りのため南方へ飛び発った後でも湖沼水からウイルスが分離された。この知見は、カモの営巣湖沼が冬の間、ウイルスを凍結保存することを示唆している。翌年、帰巣するカモは水中のウイルスに経口感染してこれを増幅する。これが自然界におけるインフルエンザウイルス存続のメカニズムであろう。
 アラスカでカモから分離したウイルス遺伝子を系統進化解析した結果、宿主カモは北米大陸に渡ることが判った。一方、シベリアに営巣するカモのインフルエンザウイルスは、中国で家禽から分離されたウイルスの系統に属することが判った。1997年に香港でニワトリとヒトから分離されたH5N1インフルエンザウイルスもまた、同じ系統であることが判明した。以上の成績は、新型ウイルスの登場舞台である中国南部までカモによって運ばれるウイルスがシベリアの湖沼に存続していることを示す。


3.香港におけるH5N1インフルエンザウイルス事件

1997年4月に香港で、ニワトリにインフルエンザが流行し4,500羽が斃死した。次いで5月に肺炎で死亡した3歳男児の気管吸引材料からH5N1インフルエンザウイルスが分離され、これがニワトリから分離されたものと近縁であることが判明した。このウイルスのH5HAは、ニワトリ体内の広範な組織に存在するプロテアーゼで開裂活性化されるため、ウイルスは致死的全身感染を惹き起こす。このような易開裂型のH5HAをもつウイルスがヒトに感染して伝播すすれば、これまでにない高病原性のインフルエンザが大流行する恐れがあった。
 香港では、その後、12月までに17名の患者が確認され、5名が死亡した。年末に香港のニワトリ150万羽が殺された。その後ヒトに新たな感染は認められていない。香港の人口650万の中で、H5N1ウイルスの感染が確認されたのは18人だけだった。ウイルスHAのレセプター特異性が鳥型のままだったためであろう。このウイルスがどこで、カモからニワトリに伝播して、病原性を獲得したのか明らかではないが、生鳥を売買するマーケットが重要な役割を果たしたことは疑いがない。


4.インフルエンザワクチン

 日本では、1962年から社会防衛を目指し、学童と生徒にインフルエンザワクチンの集団接種がおこなわれた。鶏胚尿膜腔でウイルスを培養し、尿液中のウイルスを不活化して、超遠心によって濃縮精製したものがワクチンとして用いられた。1970年には極めて純度が高いゾーナル遠心精製ワクチンがメーカーの努力によって実用化され、不純物による副反応の問題を解決した。1972年からは精製ウイルスをエーテルによって分解した HA ワクチンが用いられている。
 先進諸国では、ワクチンに対する信頼が定着し、接種率は年々増加している。ところが、日本では逆に、10年前からインフルエンザワクチンの接種率が減少し始めた。ワクチンの効果を疑い、副作用を過剰に喧伝する報道が放置されたためである。1994年には、インフルエンザが予防接種対象疾患から除かれた。
 「学童・生徒をワクチンで免疫して、社会をインフルエンザから防衛する目的の集団接種は止める。これからはインフルエンザに罹ると重症になったり、死亡するような高齢者、慢性病の患者や抵抗力のない小児、インフルエンザに罹ると社会・経済活動に影響を及ぼす人およびインフルエンザの予防を希望する人にワクチン接種を受けるよう勧奨する。」と明確に方針を転換して、これを推進すべきであった。
 ワクチンの需要が無くなったため、メーカーはその製造を止めるかまたは縮小した。ワクチン製造用の施設・設備は整理あるいは廃棄され、ウイルスを培養するために用いる大量の発育鶏卵は生産されなくなった。過去5年間、インフルエンザワクチンは、年間国民の1%分も製造されていない。もし、新型ウイルスが出現して、緊急にワクチンが必要になっても、十分量は製造できない現状である。
 1997年に香港に出現したH5N1ウイルスがヒトからヒトに伝播すれば、インフルエンザの大流行を起こす恐れがあるで、その予防のため、直ちにワクチンを準備する必要があった。1996年にアジアでカモから分離した弱毒H5インフルエンザウイルスはそのHAの抗原性が香港のH5N1分離株と近縁で、ワクチン製造に適することが判った。このような弱毒ウイルスを利用すれば、新型ウイルスの出現に際して最も迅速にワクチンを準備できる。
 現行のインフルエンザワクチンはこれを皮下に注射しているので、血液中に抗体を誘導し、ウイルスの体内拡散と増殖が防がれる。したがって、発病、重症化と死亡率を抑え、流行の拡大を防ぐ。しかしながら、不活化ワクチンを皮下や筋肉内に注射する限り、粘膜局所におけるウイルスの一次感染を完全に阻止するような免疫応答は誘導されない。インフルエンザウイルスの感染を効果的に防御するには、ウイルスが最初に取り付く鼻や喉の粘膜に局所免疫グロブリンA抗体の分泌を誘導する必要がある。私達は粘膜免疫を賦活する目的で、不活化ウイルス全粒子、サブユニット、エピトープペプチドおよびDNAワクチンを動物の鼻腔内に与えて、感染防御効果を調べている。不活化ウイルス、サブユニットおよびペプチドワクチンが感染防御能を誘導したので、有効な粘膜ワクチンが開発される目途が立った。不活化ウイルス全粒子を鼻腔内に滴下接種すれば最も効果があるので、現時点ではこれの実用化が期待される。


5. インフルエンザ治療法の確立

 私達は強毒インフルエンザウイルスのニワトリに対する病原性発現のメカニズムを解析している。粘膜に初感染した後、ウイルスは血液を介して全身の臓器組織に拡がることが判った。特に、血管内皮細胞でウイルス増殖が激しく起こり、全身性の血管炎が起こった。血管壁損傷の結果、出血、浮腫、チアノーゼならびに血液-脳関門の破壊が起こり、かつ、ウイルス増殖によって損傷した血管内皮細胞から過剰に放出された血液凝固因子が血管内血液凝固を導くものと結論した。ウイルスが感染増殖したニワトリ胚の尿膜から抽出したウイルスフリーの画分を健康なニワトリの静脈内に注射すると、ニワトリは血管内血液凝固で直ちに斃死した。ヘパリンを予め投与したニワトリはこの画分を多量に静脈内注射しても耐えた。小児のインフルエンザ脳症の剖検材料の病理組織所見、免疫組織化学検査と血液検査成績がニワトリで認められる所見と相似していたことから、インフルエンザ脳症は全身性血管炎の結果であると想定される。これらの予備成績は、インフルエンザの重症例に薬剤を投与すれば、症状の改善あるいは救命が期待される可能性を示唆している。
 インフルエンザの病原性に関与する宿主因子を解明することは、治療法の確立につながるものと考えられるので、動物モデルを用いて病原性発現メカニズムをさらに解析している。


6. おわりに

 高齢者、慢性疾患の患者と免疫機能が損なわれた人は、インフルエンザに罹患すると重篤になったり、命を失う危険がある。日本にこのようなハイリスク者は2,000万人にのぼるとみつもられており、その全人口に占める率は年々増加している。これらの人々にワクチン接種を受けるよう勧奨し、費用を健康保険で負担する制度を設けるよう提案してきた。ハイリスク者がワクチンの接種を受けていれば、重症のインフルエンザで治療を受けたり、入院するケースはずっと減る。結局は、コスト・ベネフィットの観点から、国家の医療費負担ははるかに軽減する筈である。またワクチンを常時製造していれば、新型ウイルスが出現したとしても、それに対するワクチンを速やかに用意できる。
 最近、小児のインフルエンザ脳症が毎年発生していることが判ってきた。その数は年間数百人にのぼると見積もられる。インフルエンザ脳症患者はいずれもワクチン接種を受けていない。かつて集団接種が実施されていたときに発生した学童の脳症の多くはワクチンの副作用として取り扱われたが、これは間違いだったことを示すものであろう。小児に対するワクチン接種についても、勧奨することが望まれる。


参 考 文 献

Kida H et al: Infect Immun 30 , 547-553 (1980); Virology 159, 109-119 (1987); Suzuki T et al: FEBS Letters 404 , 192-196 (1997); Kida H et al: J Gen Virol 75 , 2183-2188 (1994); Virology 162 , 160-166 (1988); Yasuda J et al : J Gen Virol 72, 2007-2010 (1991); Kida H et al : Current Topics in Medical Virology , p365-376, World Scientific Publ, London (1989); Ito T et al: Arch Virol 140 , 1163-1172 (1995); Ogasawara K et al : Proc Natl Acad Sci USA 89, 8995-8999 (1992); Naruse H et al: Ibid 91, 9588-9592 (1994); 富樫武弘ら: 日本臨床 55, 2699-2705 (1997);[関連総説]喜田 宏: ウイルス 42 , 73-75 (1992) ; 蛋白質 核酸 酵素 37, 2785-2791 (1992) ; 42, 145-153 (1997) ; 化学と生物 31, 154-162 (1993) ; 日本胸部臨床 56, S7-S13 (1997) ; 科学 68, 691-699 (1998)



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