エイズワクチン(メルク・アデノウイルスワクチン)・トライアル失敗の意味すること
(Vol. 29 p. 153-155: 2008年6月号)

歴史的にみて、集団そして世界レベルでの感染症制圧に最も重要な役割を果たしてきたのがワクチンであるが、HIVのワクチン開発をめぐる状況は決して容易ではない。最近のメルクのアデノウイルスを用いたワクチンに有効性が証明されなかったばかりか、むしろ感染率を高める可能性があるというニュースは大きな衝撃をもって受け取られている。

「スペースシャトル・チャレンジャー事故に比するべきディザスター(disaster)(R. ギャロ)」、「われわれは有効なエイズワクチン開発が可能でないという事態を覚悟する必要がある(米国国立衛生研究所所長・A. ファウチ)」、「われわれは、20年前に比べてHIVワクチン発見に近づいているとは言えない(D. バルチモア)」、「Enough is enough(バルチモア・サン紙上:エイズ・ヘルスケア財団理事長・M. ワインシュタイン)」といったコメントはその衝撃の大きさと深刻さを物語っている。

メルクワクチンは、HIV-1のgag pol nef の3遺伝子(いずれも細胞性免疫による感染防御にかかわる主要なエピトープを含むことが知られているHIV-1遺伝子)を組み込んだアデノウイルス5型(Ad5)の非複製型ウイルスを用いるもので、強力な細胞性免疫を誘導できることが、前臨床実験によって明らかにされてきた。現時点で最も期待されていたワクチン候補の一つであり、また下に述べるように、極めてよくデザインされたプロトコルのもとに、ワクチン評価のためのフィールド・トライアルが実施された。

Ad5ワクチンを用いるフィールド・トライアル(STEPトライアル)は、2004年12月に開始され、南北アメリカを中心としてカリブ海沿岸、オーストラリアの合わせて世界の4地域の3,000名の人々が参加した。対象者の多くは男性同性愛者(MSM)と売春婦、62%が男性で、対象者の平均年齢は29歳。対象者の男性の25%、女性の50%は、過去6カ月間に最低20名の性的パートナーとの性交渉があったというハイリスクの人々である。もともと、ワクチン接種前のAd5に対する免疫反応が高い人は除外されていたが、2005年8月にトライアルの規模をさらに拡大するために、その条件が除かれ、2007年3月までに対象者数は3,000人に達し、ランダム化された二重盲検法によりワクチン効果が評価された。対象者の半数がワクチン接種群、残り半数がプラシーボ接種群である。

ところが、解析データの詳細な吟味の結果、まもなく、同ワクチンには感染防御効果が見られないばかりか、プラシーボ接種群に比してむしろ感染率を高めるという衝撃的な事実が明らかとなり、2007年9月に、トライアルの即時中止が決断された。2007年10月17日の時点で、ワクチン接種群では49人、一方プラシーボ接種群では33人の感染が確認されている。最も高い感染のリスクを示したのは、Ad5に対する免疫が高い男性であった(女性の群では全体で感染者は1名だったため、解析は男性集団を対象としてなされた)。これらの結果は専門家にとっても全く予測外のことであった。

また、STEPトライアルに続いて、南アフリカでファンビリPhambili(南アフリカのXhosa語で「前進」を意味する)と名付けられた同様なトライアルが開始されていたが、STEPトライアルと同時にトライアル中止の判断が下った。中止された時点で、参加者は801名に達していた。両トライアルともに、ワクチン接種によって感染率がおおよそ2倍に上昇するという結論が得られている。

ワクチンがHIV感染をむしろ亢進させるメカニズムの詳細は明らかではないが、ワクチンによる免疫系の活性化(Immune activation)が原因ではないかと推測されている。免疫系に対する外的な刺激要因(その他の感染症など)が引き金となって免疫活性化が起こると、HIV-1感染の標的細胞であるとともに宿主の防御的免疫応答の中枢を担うCD4陽性T細胞が増殖する。また、そのような状態ではHIV-1感染に必要なコレセプターのCCR5のCD4陽性T細胞膜表面への発現が亢進し、HIV-1に感染しやすくなるものと考えられる。また、フランスのB. オートランのグループも、最近、サノフィ社の治療用ワクチン(HIV-1に対する細胞性免疫の増強を狙ったカナリー・ポックス・ワクチン)の既感染者への接種が血中のウイルス量を上昇させたという知見(私信)を得ており、同様にワクチン接種による免疫活性化を想像させる。一方、そうでない未知のメカニズムが働いている可能性も指摘されている。すなわち、Ad5ワクチン接種群で活性化CD4陽性細胞は、予測に反して増加してはいないとの観察があり、その原因は謎である。ワクチン接種により感染性が亢進するという現象の解明は、今後のワクチン開発、トライアルのデザイン、安全性などの問題を考えた場合、解明されるべき非常に重要な課題であり、今後様々な角度からの解析がなされる必要があると考えられる。

さて、米国NIHは、エイズワクチン研究に4億9,700万ドル(520億円)を投入し、うち47%が基礎研究に、38%が候補ワクチンのヒトでの治験に費やされているが、計画のドラスティックな見直し、方向転換に迫られている。これまでワクチンの研究開発を主導してきた「パイプライン(治療薬開発に典型的に取られる方法。複数の候補ワクチンに関して、併行して、基礎研究−前臨床実験−第1相−第2相−第3相治験と間断なく開発評価を進めていく)アプローチ」から「研究のプライオリティを基礎研究へ(Back to the basic)、発見的研究(Discovery research)へ」という大きな転換が提言されている。しかし、問題は、どのような方向の研究開発が有効なワクチン開発に到達する道であるかについて、希望がもてる明確な道しるべがあるわけでないという点である。例えば、理論的には、広範囲のウイルス株に有効な中和抗体誘導型のワクチン開発は、問題の解決の最も有力な方向性の一つであることは疑い得ないが、そのようなワクチンの開発が著しく困難であることは、これまでのエイズワクチン研究が明らかにしてきたことでもある。

Ad5ワクチントライアルの失敗の経験が指し示す明確な教訓の一つは、サル感染動物モデルによる有効性評価をより厳格な条件で行うべきで、その条件をクリアーしたもののみが、ヒューマン・トライアルに進むべきであるという点である。エイズワクチン開発の世界的権威でかつ最も批判的(クリティカル)な視点からのオピニオンリーダーであるR. ドローシャー博士が提唱するように、候補ワクチンは、ヒューマン・トライアルに進む前にhead-to-headの評価がなされるべきであろう。これまでチャレンジ・ウイルスとしてSHIVヒトに感染するHIV-1とサルに感染するSIV間のキメラウイルス)が評価に用いられることが多かったが、このタイプのウイルスは、(おそらく中和抗体に対する感受性が高く)容易に感染防御されるため、ワクチン評価には極めて不十分であり、チャレンジ・ウイルスとしてSIV そのものを用いるべきである。さらに、SIV感染モデルに関しても、設計されたワクチン抗原の多くはチャレンジするウイルスと同一であるという、現実のフィールドではあり得ない組み合わせで評価が行われてきたが、これも非常に不十分であり、チャレンジ・ウイルスとして異系統のSIVをも用いたより厳格な条件での評価が今後なされねばならないと提言されている。

先に引用したコメントにもあるように、エイズワクチンの開発そのものが、理論的に(あるいは現実の課題として)不可能に近いといってよい困難さがあると予測される。それにはいくつかの要因があるが、とりわけHIVのもつ異常に高いゲノム多様性を忘れてはならない。先に触れたR. ドローシャー博士らによっても指摘されているように、HIVの個体間の多様性ですら、変化しやすいとされるウイルスの一つであるインフルエンザウイルスの株間の多様性よりはるかに大きく、さらに同一サブタイプ内、さらにサブタイプ間の遺伝学的差異に至っては、その数10〜100倍を超える。このようにHIVに比べれば、はるかに変化の程度が低いインフルエンザウイルスでさえ、流行年ごとに的確な流行株の予測と予測される流行株に合わせたワクチン製造をしなければ、有効性を確保できないという事実を考えた場合、エイズワクチンの開発の(ほとんど絶望な)困難さの一端が理解されよう。

メルクワクチンのトライアルが撤退を余儀なくされたことは、残念なことであるが、一方では何が問題にされねばならないのかがより明確になった点は、それが解決可能な問題かどうかは別として、高く評価されねばならない。有効なエイズワクチンの開発には、従来のワクチン開発の常識・経験を超えた文字通りブレーク・スルー的アイデアの登場が必要なことだけは確かと考えられる。人類の英知が試される極めて困難な課題であることは疑いない。

 参考文献
Steinbrook R, N Engl J Med 357: 2653-2655, 2007
Sekaly R-P, J Exp Med 205: 7-12, 2008

国立感染症研究所エイズ研究センター 武部 豊 山本直樹

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