アジアの狂犬病と疫学

(Vol.28 p 66-68:2007年3月号)

WHOは年間55,000人が狂犬病で死亡しており、その56%がアジア諸国で発生していると報告している。そのほとんどが地方都市や辺境地での発生である。2億5,000万人が狂犬病ウイルス感染にさらされており、800〜1,000万人が曝露後予防(PEP:post-exposure prophylaxis)を受けているとされる。特に、アジアにおいては患者の95%以上がイヌからの咬傷により感染を受けており、15歳以下の子供が30〜50%を占めている。

欧米の先進国においては、ヒト、動物とも安全で有効なワクチンの普及により年間のヒト狂犬病発生数はわずかであり、患者のほとんどがアジア・アフリカ諸国の狂犬病が高度に流行している地域で感染して帰国後に発症した輸入狂犬病症例である。

日本では1949年のヒト狂犬病74人、1950年のイヌ879頭をピークに、1950年の狂犬病予防法の施行後、1958年以降ヒト、動物も含め発生はない。1970年にネパールからの輸入症例が1例あり、以来昨(2006)年のフィリピンからの輸入症例の2例まで、36年間発生が見られていなかった。アジア地域における狂犬病清浄国は島国(日本、台湾)のわずかの国に限られる。これらの国を除いて、狂犬病はいまだに常在し、根絶されていないのが現状である。

中国、インド、インドネシア、フィリピン、スリランカ、タイ、ベトナムの7カ国はAsian Rabies Expert Bureau (AREB)として毎年会議を開き、各国の状況を報告し、今後の課題や対策を検討している。2005年7月に上海で開催されたAREBの会議の報告によると、2004年の数として、10万人当たりの狂犬病発生率はタイの0.03からインドの2〜3人と、アジア諸国においても大きな開きがある。特にインドはその人口を考えれば、間違いなく世界最大の狂犬病発生国である。次いで、中国の2,651人、フィリピンの248人、インドネシア99人、スリランカ97人、ベトナム81人、タイ19人となっている。特に中国では減少傾向にあったものが、1998年来、急激に増加傾向にあり、ここ数年感染症による死亡者の1位、2位を争う数になっている。

各々の国における狂犬病の発生状況は各国の地理的条件、文化的背景、経済状況、政治体制による国家対策の違い等を含めた複雑な要因により、様々な状況にある。国民の狂犬病に対する知識の欠如に加え、イヌの飼育形態の複雑さ(個人所有の飼いイヌより、コミュニティーの中で飼われている)、公衆衛生対策における優先順位が低いことや、国家の財政上の問題によるイヌに対する狂犬病対策の遅れとイヌの頭数の制限の困難さ、ワクチン生産供給体制の不備等が流行を抑えられない原因となっている。自国で組織培養ワクチンの生産を行っている国は少なく(中国、インド)、輸入品にたよっている状態である。輸入組織培養ワクチンは多くの国民にはまだ非常に高価であり、いまだ脳由来センプル型ワクチンの接種を受けざるをえない人々が多数いる。

各国における狂犬病の状況を概説する(中国、フィリピンの状況については、本号8ページ9ページ参照)。なお、以下に挙げる発生数は報告数であり、各国によりその程度は異なるが、実数ははるかに多いものであると推測される。

タイ:タイにおけるヒト発生数は1987年200人以上であったのが、イヌへの対策(野良イヌの捕獲、ワクチン接種)でイヌでの発生の減少と相関してヒトでの発生も減少している。1993年に組織培養ワクチンの輸入に切り替えられた。加えて、狂犬病の感染が疑われるヒトへのPEPを可能にする対策を積極的に行い、輸入品である組織培養ワクチンの節約使用法(タイ赤十字接種法)の開発・普及と、狂犬病の知識の啓発に努め、近年はヒトでの発生が非常に減少している。さらなる対策として、タイ政府は野良イヌ頭数の減少を目標にしているが、思うようにはかどっていない。バンコクでは年間狂犬病患者が1人出るか出ないかまで減少している。

マレーシア:マレー半島では野良イヌの駆除とペットのワクチン接種対策が行われた結果、近年ヒト狂犬病の発生はみられていない。しかしながら、野良イヌにおいての狂犬病はまだ制圧されていない。

韓国:イヌへの狂犬病ワクチン接種と野良イヌの駆除により、1984年に制圧に成功した。しかし、1993年に38度線非武装地帯(DMZ)付近で、イヌの狂犬病が咬傷事故とともに報告され、これ以降、北朝鮮との国境沿いに狂犬病の流行が拡大して現在に至っている。流行の原因は、国境を越えてDMZから侵入する狂犬病に罹患したタヌキが原因とされている。残念なことに1998年にはヒトが狂犬病で亡くなり、2003年までに7名が死亡していると聞く。現在、韓国では、イヌ、ネコ、家畜に対するワクチン接種と野良イヌ、野良ネコの駆除、これに加えて、流行の原因動物であるタヌキに対する対策として、タヌキの狂犬病流行地域に経口型の狂犬病ワクチンを散布して流行の拡大阻止が行われている。しかしながら、いまだ狂犬病の制圧はできておらず、年々、イヌ・家畜での発症数が増加している。

インド:届出伝染病でないことから、正確な実数は不明である。1995年の報告から2004年の報告まで毎年2万〜3万人死亡としか把握されていない。実数は4〜5倍以上と推測される。インドは、狂犬病の発生率と人口数を考えれば、明らかに世界一の狂犬病患者発生国である。狂犬病のPEP を行ったヒトは1995年には 100万人と報告されており、その半数がセンプル型ワクチンの使用である。また、2004年には 230万人がPEPを受けており、依然その25%の人はセンプル型ワクチンを使用している。一方で、狂犬病に曝露した人の79%がPEPを受けずに亡くなっているという報告もある。2005年までには、外国企業によるインド国内での組織培養ワクチンの生産が始まり、脳由来ワクチンの製造は廃止される予定ではある。

インドネシア:スマトラ、カリマンタン、ジャワ、スラウェシ、フローレス島など大きな島と数多くの小さな島から構成されている国であり、各々の島により、狂犬病の状況は異なる。キリスト教徒の多いスラウェシ島で発生が多く、イスラム教徒の多いスマトラ島では発生は少ない。いくつかの島においては狂犬病の発生は見られていないようであるが、その実数は明らかでない。1989年よりジャワ島、カリマンタン島において、狂犬病制圧対策がなされ、この島においては1988年 117例が1995年には36例に減少した。しかしながら、発生のなかった島においての発生が見られるようになり、2004年のデータでは 100人ほどに増加している。PEPを行ったヒトの数は6,770件で、その50%程度が組織培養型のワクチンを接種していると報告されている。

ベトナム:1995年頃は 400人の死者、35万人がPEP を行ったと報告されている。2004年には81人の死者、61万人がPEPを受けたが、その90%程度の人が自国生産の乳のみマウスの脳ワクチンを使用している。近年は、中国から組織培養ワクチンを輸入しており、自国でも組織培養ワクチンの生産を行う計画が進められている。

スリランカ:1973年のヒト発生 377件から徐々に減少し、1993年には98件になった。その後若干の増減がみられたが、2004年の報告では97件と、年間100件程度の発症数が続いている。死亡者の70%がPEPを受けていないと言われている。ヒトは、そのほとんどがイヌからの感染であり、ヒトに感染をもたらしたイヌの64%は野良イヌである。1995年に脳組織由来ワクチンの使用は廃止され、現在では組織培養ワクチンを使用するようになっている。ちなみに、2004年にはPEPを行ったヒトは20万人と報告されている。

パキスタン:毎年2,000〜2,500人の発生がある。1995年のデータによると、8万1,800人がPEPを受け、その80%がセンプル型(羊脳)ワクチン、20%が組織培養ワクチンを受けている。羊脳ワクチンの製造には問題があり、現在製造が止まっている。

バングラデシュ:年間1,550〜2,000人の患者が発生していると推測されているが、正確な統計は集められていない。6万人がPEPを受けている。その95%がイヌからの咬傷による。200〜300万頭のイヌがおり、その90%以上が野良イヌと推定されている。1996年には、70万ドーズのセンプル型ワクチンを製造し、4万ドーズの組織培養ワクチンを輸入したと報告されている。

ネパール:1990年代前半は毎年210人以上のヒト発生数が報告されていたが、2003年には44人が狂犬病で死亡したと報告されている。組織培養ワクチンを海外から輸入してはいるが、ほとんどの人が脳組織由来ワクチンを接種している。

カンボジア:届出伝染病でないため、その実数は明らかでない。1996年の報告によると年間6,000〜7,000人がPEPを受けている。その99%はイヌからの咬傷による。ワクチンはベトナムからの乳のみマウス脳由来ワクチンを輸入している。

ミャンマー:狂犬病は届出伝染病となっているが、ヒト発生数、ワクチン接種の報告は不完全で実数は明らかでない。2003年は1,100人の発生があったと報告されている。

 参考文献
・1996年中国武漢で開催された第3回Rabies in Asia国際シンポジウム
・2005年中国上海で開催されたAsian Rabies Expert Bureau Meeting

国立感染症研究所ウイルス第一部  森本金次郎
国立感染症研究所獣医科学部  井上 智

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