日本の旅行者におけるマラリア予防の現状

(Vol.28 p 4-6:2007年1月号)

1.はじめに

近年、日本人出国者数は増加の一途をたどってきたが、2001年9月の米国同時多発テロ、およびそれに続くアフガン戦争、2003年のイラク戦争および重症急性呼吸器症候群(SARS)の影響を受けて一時減少した。しかし、その後間もなく増加に転じ、2005年には1,740万人となり、まもなく史上最高値に達すると思われる。この中にはマラリア流行地への旅行者も多く含まれ、マラリア予防は旅行者の対策として重要である。また、国内にはマラリア媒介蚊が生息することから、わが国でのマラリアの土着を阻止するためにも重要である。しかし、日本人旅行者は一般にマラリアに対して無防備であるとも指摘されている。本稿では、「旅行医学」の分野におけるマラリア予防の考え方を述べ、日本人旅行者での現状を示し、今後の改善に生かしたいと思う。

2.マラリア予防の原則とわが国の現状

マラリア予防の基本は防蚊対策である。具体的には、日没から夜明けの時間帯の外出を避ける、外出する場合には皮膚を露出しない、露出する場合にはDEETを中心とする昆虫忌避剤を正しく使う、エアコン付きで外から蚊が侵入しない部屋に宿泊する、室内で蚊取線香あるいは電気式蚊取器を使う、蚊帳(できれば殺虫剤に浸漬した蚊帳)を用いる、などが挙げられる。DEET含有昆虫忌避剤については、欧米では30〜35%の濃度が使われるが、わが国で市販されている製品では10%程度のものがほとんどである。濃度が低い場合には、それに応じて使用間隔を短くする必要がある。しかし、このような防蚊手段を確実に実施できると保証できないことも多く、そのような状況でしかも感染のリスクが高い場合には、以下の抗マラリア薬の使用も考慮する。

予防内服については、マラリアの中でも危険な熱帯熱マラリアを対象とすることが多い。欧米では現在、メフロキン、アトバコン/プログアニル合剤、ドキシサイクリンの3種が主流であり、効果はいずれも90%以上とされる。クロロキンは熱帯熱マラリア原虫の多くが耐性を獲得しているので、単独での使用が勧められるのは中米、カリブ海諸国、中東の一部のみである。クロロキン/プログアニル併用でも一般には効果が低いことから、ほとんど使われなくなった。これらの中で、わが国でマラリア予防に認可されているのはメフロキンのみである。ドキシサイクリンはわが国では承認薬であるが、マラリアの予防薬としては認可されていない。しかし、欧米でも事情は同じであり、各国でのマラリア予防ガイドラインにドキシサイクリンの使用を明確に記載することにより、広く認知されている。アトバコン/プログアニル合剤については、筆者が関係する熱帯病治療薬研究班(略称)が治療薬として保管しているが、予防薬としての供給はできない。

メフロキンについては、例外的にタイ・ミャンマーあるいはタイ・カンボジアの国境地帯の熱帯熱マラリアでは耐性が多く(50%以上)、その地域では勧められないが、その他の地域では90%以上の効果を示す。副作用として精神神経系症状が有名であり、軽度の眩暈、不眠、奇妙な夢などから、稀には重度の平衡感覚障害、うつ、痙攣、急性精神病なども挙げられる。しかし、メフロキンの副作用は誇張される傾向があることにも注意が必要である。精神神経系副作用の危険因子として、“recreational drug”の併用、大酒、女性であることなどが知られており、また副作用の75%は初めの3回の服用で生じている。これらの危険因子を避け、初めての服用であれば3週間前から開始することで、副作用のリスクを相当程度軽減することが可能である。

抗マラリア薬を用いる別の方法として、スタンバイ治療がある。これは、治療用として処方された抗マラリア薬を旅行者が携行し、マラリアが疑われる発熱を生じた時に、自らの判断で服用することである。しかし、定められた条件(表1)を厳格に守る必要がある。欧米でスタンバイ治療を勧めるのは、一般にマラリアのリスクが低い場合(例えばアジア)であり、リスクが高い場合(例えばサハラ以南アフリカ)には予防内服が勧められる。また、予防内服を行っていても、その薬剤と地域によってはマラリア罹患の可能性が高いと考えられることもあり、その場合、予防内服のバックアップとしてのスタンバイ治療もありうる。わが国におけるスタンバイ治療のための抗マラリア薬の候補としては、治療用に認可されているメフロキン、経口キニーネ、スルファドキシン/ピリメタミン合剤の3種類がある。しかし、添付文書にスタンバイ治療としての使用が記載されていないことから、重度の副作用が生じた場合などに、処方したことの法的責任が発生するのを危惧する向きもある。ただし、スタンバイ治療が広く認められているヨーロッパでもわが国と同じ事情であり、自国のマラリア予防ガイドラインに明確に記載することにより、広く認知されるに至っている。このように、予防内服とスタンバイ治療とを同列に比較できない可能性もあるが、両者の長所と短所につき、表2にまとめた。

3.日本人旅行者でのマラリア予防に関する調査研究

筆者(木村)らは2001年に、ワクチン接種のために検疫所に来所した日本人渡航予定者で、渡航予定地域にマラリア流行地を含む者を対象にアンケート調査を行った1)。その結果、マラリアの主症状について発熱と回答した者は83%であったが、第一の予防法として「蚊に刺されないこと」と答えたのは69%と低かった。さらに自らの渡航先でのマラリア流行の有無について「知っている」と答えたのは41%のみであり、帰国後にマラリアが疑わしいときの相談先を「知っている」と答えたのはわずか20%であった。

次に筆者(木村)らは2002〜2004年の期間に、上記調査研究と同じ場所で、しかも過去にマラリア流行地へ渡航した者を対象とし、その時のマラリア予防、特にスタンバイ治療についてアンケート調査を行った。その結果、個人的防蚊対策を行った者は53%であったが、予防内服は13%、スタンバイ治療は6%にすぎなかった2)。また、実際に行われたスタンバイ治療については、流行地に到着してから早過ぎる時期に(マラリアの潜伏期間以内)実施したこと、24時間以内に医療機関に受診できるのに実施したこと、スタンバイ治療の後に医療機関を受診しなかったこと、などの不適切な実例が明らかとなった。しかし、上記の2つの調査研究はそれぞれ単独で行われたため、他国の旅行者との比較ができない難点があった。

その後、国際旅行医学会(ISTM)の主要メンバーが中心となり、同一のプロトコールを用いて複数国で調査研究を実施することとなった。そこでは国際空港の出発ラウンジで、まさにマラリア流行地へ渡航する直前の者を対象とした。しかしわが国では空港内での調査が不可能であったので、筆者(波川、木村)らは上記の調査研究2)と同様な条件の者、およびサハラ以南アフリカの日本大使館医務官室を受診した者などを対象とした(未発表)。その結果、予防内服を行った者は10%、スタンバイ治療のための抗マラリア薬を持参した者(必ずしも服用したとは限らない)は8%であった。また、予防内服あるいはスタンバイ治療のための抗マラリア薬携行のいずれも行わなかった理由としては、「入手法を知らない」が33%で最も多く、次いで「副作用が心配」が14%であった。

4.考 察

我々の上記の調査研究3)とほぼ同じ条件でまとめた他国のデータと比べると、予防内服の実施率についてはヨーロッパで38%3)、米国で34%4)、アジア/オーストラリアで40%5)であったことから、日本人旅行者ではかなり少ないことが示された。また、予防内服あるいはスタンバイ治療としての抗マラリア薬の入手法が十分知られていないことが示された。これは、わが国で正式に予防内服が可能になって5年の歴史しかないことと関連あると思われる。これを改善させるためには、関係する医療従事者の努力も必要であるが、旅行関連企業を通じての啓発などが効果的であると思われる。また、抗マラリア薬を用いなかった理由として予防薬の副作用を心配した者は、ヨーロッパでは5%未満3)、米国では3%4)であったのに比べ、わが国では14%と高かった。予防薬の副作用は皆無とは言えず、特にメフロキンでは他の薬剤に比べて精神神経系副作用の頻度が高いと示されている。しかし、副作用を過剰に心配し、マラリアにかかった場合の危険を過少評価するのも不適切と思われる。これは旅行者のみならず、医療従事者の予防薬に対する考え方にも関係する。メフロキンの副作用の性格、その危険因子、対応策などがかなり明らかになっている現在、関係する医療従事者はそれらを正しく理解し、旅行者に適切に情報提供することにより、旅行者が納得した形での“informed decision-making”を可能にするよう心がけるべきであろう。

また、欧米各国におけるマラリア予防ガイドラインの役割が明らかとなった。わが国でも筆者(木村)らが関係し、2005年3月に「日本の旅行者のためのマラリア予防ガイドライン」6)を出版した。ここでは、予防内服については最低限勧められる状況を示し、さらに“off-label use”であるドキシサイクリンによる予防内服、およびスタンバイ治療の実施についても言及している。現在、改訂版の作成中であるが、医学の様々な領域で薬剤添付文書情報とは別の意味でガイドラインの重要性が高まっており、わが国のマラリア予防ガイドラインも真に役立つものとなることが期待される。

 文 献
1)川上桂子,他,厚生の指標 52(4): 23-27, 2005
2) Kimura M, et al ., Travel Med Infect Dis 4: 81-85, 2006
3) Van Herck K, et al ., J Travel Med 11: 3-8, 2004
4) Hamer DH, et al ., J Travel Med 11: 23-26, 2004
5) Wilder-Smith A, et al ., J Travel Med 11: 9-15, 2004
6)マラリア予防専門家会議編:日本の旅行者のためのマラリア予防ガイドライン,(株)フリープレス 東京, 2005年

国立感染症研究所感染症情報センター 木村幹男
札幌医科大学保健医療学部看護学科  波川京子

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